☆☆☆ 目次 ☆☆☆


  
◇はじめに

第1章
 伝説のジム

◇ 最盛期
◇ ライレージムの終焉
◇ 再始動
◇ 新生ジム



第2章

 
ウィガンへの旅立ち

◇ ライレージムへの興味
◇ 21歳の決意



第3章 
 ロイ先生との出会い

◇ ジム探索
◇ 初対面
◇ 初練習
◇ 忘れられない言葉
◇ 取材
◇ 聖地に立つ
◇ 伝説に触れる



第4章
 本格修行の開始

◇ 入国審査
◇ 到着初日の洗礼
◇ フランス遠征
◇ ノート



第5章

 実態を知る

◇ ロイ・ウッドの指導
◇ キャッチの実態
◇ ランカシャー選手権
◇ サブミッション
◇ 生き証人たち
◇ 全英選手権
◇ ウィガンでの生活


 
第6章 
 ウィガン訪問者

◇ SWS
◇ 日本人記者
◇ Bushido
◇ 無我


第7章
 伝説の最強レスラー

◇ ビリー・ジョイス伝説
◇ 達人の技
◇ 達人を目指して


第8章
 ビル・ロビンソン先生

◇ スネークピットジャパン
◇ 宮戸氏との再会
◇ ロビンソンテスト
◇ スパーリング披露
◇ コーチング
◇ 最高の賛辞
◇ 学び方を学ぶ


第9章

 6年ぶりのウィガン

◇ 変化
◇ 先生の覚悟
◇ 前哨戦
◇ 最初で最後のスパー
◇ コーチ代行
◇ レスリングマット


第10章

 ライレージム京都

◇ 自分の練習場所
◇ 命名
◇ ニアミス
◇ ロビンソン先生の言葉


第11章
 ロイ・ウッド認定

◇ セミナーの謎
◇ 19年前の練習
◇ 認定書
◇ 半世紀の時を経て
◇ 20年目にして思うこと

 ◇おわりに

 

 

 

 

第5章  実態を知る

 

   

 

 

      ◇ロイ・ウッドの指導


私は当時、プロレスラーの“ゴツイ体”をイメージして、ウェートトレーニングも高重量でガンガンやっていた。
しかし、先生に言われた通り、このフランス遠征後から、肉体改造に打ち込んだ。
ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングに適した体とは? 減量というより、自分の体を自由自在に長時間動かし続けるのに最高の体を作るということだと理解した。 激しい練習で、80kgあった体重も、すぐに70kgを切った。練習時間自体はそれほど長くはなかったが、とにかく最初から最後まで息をあげっぱなしの練習だった。

子供の練習生は大勢いて、技の練習をたくさんして、最後にスパーリングを勝ち抜き方式でするというものだった。
それが終わると、大人の練習が始まる。レギュラーメンバーは、常に2~5人くらいだった。ただ、たまに来る人も入れると、大人もかなりいた。月謝制ではなく、来る度にお金を払うシステムだったためだと思われる。

大人の部は、休むことなく動き続けるサーキットトレーニングで始まり、そのあとスパーリングだった。
スパーリングは、必ず一組ずつ行われる。ジムは広いが、複数組同時にすることはない。 つまり、常に先生の目が光っている。 そして、練習生がミスをすると、そこで先生がスパーリングを中断させ、間違いを指摘し、正しいやり方を、先生が「よし」というまで反復練習させられる。その後スパーリングが再開される。
ビリー・ライレーもこのように指導していたという。

スパーリングは、何分やるのか、いつ終わるのかもわからない。10分、20分も休みなしで、先生が「止め」というまで
延々と続く。「あと1分」と言っておきながら、訪問者が来て、話始めて、5分以上ほったらかしで、マットに目を戻し、再び「あと1分!」と言われるようなこともしょっちゅうだった。

ヘトヘトになってきて、「今から先にテークダウン取ったほうの勝ちで終わり!」 と言っておきながら、それで終わるかどうかはわからない。

「よし今日はこれまで!」と言って練習が終わり、着替えてカバンを肩にかけ、帰ろうとする。

しかし何かを思い出し、「あっ、ちょっと待て」と引き留め、「この技はこうだ!」と熱血指導が再び始まる。そしてまた何度も何度もその技の練習を、ジーンズ姿でさせられる。先生の「あと○分」、「今日はこれで終わり。」ほど信用できないものはなかった。とにかく、先生のさじ加減一つで、本当に終わるまでわからない。

自分で残り時間を計算してペース配分できず、その場その場で、柔軟に上手く対応しなければならない。しかしこういったこともまさに、“キャッチ・アズキャッチ・キャン”スタイルである。

このようなことを書いていると、ロイ・ウッド先生は昔気質の、恐い先生と思われるかもしれないが、そうではない。
むしろ優しい先生だ。 声を荒げ怒鳴りつけたり、高圧的な態度で、強制的にやらせるようなことは決してしない。いかなる時も冷静沈着で、優しく丁寧に指導してくれる。 技の練習を何度もさせられる時の、“Do it again.”(もう一度やれ。)という言葉も、威嚇的なものではなく、さらっとしたものだ。

「すみません、もう出来ません。」と言ったとしても、「何を言ってるんだ!」と怒られることはないだろう。でも、なぜか先生の優しい口調の中から感じる、真剣さ、厳しさ、強さ、熱心さがいつも私のモチベーションを高めてくれていた。

 

 


     ◇キャッチの実態

 


実際にロイ・ウッド先生から学ぶレスリングとは?
多くの昭和プロレスファンがそうであるように、私のランカシャーレスリングのイメージも、

カールゴッチ → アントニオ猪木、藤原嘉明、佐山サトル、前田日明 → UWF! というものであった。

ところが、しばらく学んでいくと、「少し違うかなぁ...」 が正直な感想だった。
もちろん、私はUWFの技術を習ったわけではないので、あくまでも一ファンとしてUWFを見ていたイメージではあるが。

サブミッション(関節技)自体は、やはりUWFでよく見られたものがたくさんあったが、 それ以外の部分に関しては、UWFとはずいぶん違うのでは? と感じていた。

「絶えずサブミッション(関節技)の取り合いをする」というのではないと感じた。また、UWFで見られた、いわゆる“亀”の体勢もない。ロイ・ウッド先生いわく、「その体勢になれば、ビリーライレーに、この腰抜けが!と怒鳴られ、後方からお尻を蹴り上げられた。」
あと、昔からチョークスリーパー(首を絞める技)はやっていなかった。(ビリー・ライレー以前の時代にはやっていたらしい)
キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの関節技は、カール・ゴッチによって、ウィガンから日本に伝えられたものが多いはずなのに、技の名前は日本で呼ばれているものと違うものが多かった。例えば、写真のチキンウィング・フェースロックもウィガンでは別名だ。 詳しいことはわからないが、日本での呼び名は、当時のマスコミによって名づけられたものなのかもしれない。

フリースタイル(オリンピックスタイル)は、サブミッションを習う上での基本という考え方のようで、ここに重点が置かれていた。 かといって、ロイウッド先生の教えるフリースタイルは一般的なフリースタイルともかなり違う。

バックを取られて、体を伸ばしフラットになって、ディフェンスするというフリースタイルでは常識のことも、当然教えられなかった。
フリースタイルの試合に出ても、ロイ・ウッド先生から、その体勢を取るよう指示されたことはない。

フラットになるのも、亀になるのも、ダメなのである。その体勢になったら、「動け!立て!」という声がとんでくる。
相手にバックを取られても、防戦一方になるのではなくそこから無数のエスケープ法、カウンター技が、このランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングにはある。
常に積極的な姿勢で、相手の動きを読み、技を繰り出していく、華麗な技の攻防 - このスタイルの魅力の一つだと思う。

 

 

 

     ◇ランカシャー選手権



よほどニュースがないのか、またウィガン・イブニングポスト紙に載せてもらうことになった。今回は1ページも。練習風景、パブでの生活など、ポーズも取らされ、写真もいっぱい撮ってもらった。内容は、「日本から、松並修という若者が、ランカシャー伝統のレスリング、“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”を学びにロイウッドのところへやって来て、厳しい特訓を受けている。・・・・近々、ランカシャー選手権に参加する。・・・・・パブに住んでいて、オーナーのグロリアさんは家族のように接している。」1994年1月20日発行の夕刊紙の記事だった。

当然ウィガン中に、この新聞が出回ったものだから、その後は近所のお店などでも「新聞見たよ!」とたくさんの人に声をかけられるようになった。

新聞に書かれたように試合に参加した。
フリースタイルの大会だが、 「ビリー・ライレーに学んだことを変えることなくそのまま伝えていく。そうすればどんなルールで戦っても負けない」というロイ・ウッド先生の信念のもとに教わった、ビリー・ライレーのレスリングを自分がどれだけ理解し、身に付けたのか?を試すのにいい機会だった。

下になっても、通常のフリースタイルのようにフラットになってディフェシブにならないということも実践できた。長い一日で、集中力は切れてしまったが、結局5試合戦って、銅メダルを獲得できた。

「教わったことがだいぶ出せたと思う。これからも言われた通りに一生懸命やっていくだけ。」と当時の日記にも書いてある。自分のために一生懸命に教えてくれる人を信じ、素直に教えられたことをやっていく。  当たり前のことだが、本当に大事なことだと思う。

 

 

 

       ◇サブミッション


当時、ロイ・ウッド先生の下でサブミッション(関節技)を含んだ練習をやっている者はいなかった。
しかし私は生意気にも、’93年11月にジムに入ってすぐに 「サブミッションも教えてください。」とお願いしたが、「そんなもの、すぐには教えられない。 ビリーライレーもなかなか教えてくれなかった。」と一蹴された。
このことは、ビル・ロビンソン先生の自伝でも語られている。 「ビリーライレージムで、サブミッションを習ったのは、入門してから3年近くたってからで、それまではとにかく基本、基本の毎日だった。」とある。

試合2日後の1月25日、練習を再開した。試合直後なので、参加者は私ともう一人だけ。 2人で長々とスパーリングもして、ひと通り練習が終わった。 しかし、先生が「今日はこれまで!」と言っても、本当に帰るまで終わりかどうかわからない。
「あっ、ちょっと待て。」   「あ、また始った…」

私の試合のミスなどを思い出したのだろう。
「この前の試合、あの場面でお前はこうした。フリースタイルではあれでも良いが、本当はこうだ。 これが俺たちがライレージムでやっていたやり方だ。」と言ってサブミッションを見せてくれ、その練習をさせられた。銅メダルのご褒美か、初めて本格的にサブミッションを教わった日だった。

この日から、少しずつではあるが、サブミッションも教わるようになった。
本当のランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングを。

そして、フリースタイルの試合では、反則で使えない技も、ジム内での練習では、相手がフリースタイルの選手でも、どんどん使っていけと指示された。 2ヶ月目にして教わった。先生の若い頃は、もっと厳しく、こんなに簡単に誰も教えてくれなかった。

時代は変わり、今は誰でもすぐに何でも教えてもらえる。また、DVD、インターネットなど、いつでもどこでもすぐに映像で技を確認できる。
テレビもビデオもなかった、ビリー・ライレーの時代、技は本当にシークレットだったのだ。先生から直接指導してもらうまで学ぶことはできなかった。どちらがいいのかはわからないが、 私は昔のやり方のほうが好きだ。

しかし、今でも本当の技術は、DVDやインターネットで身に付けることは出来ないと思う。見た目の技の形は、簡単に真似できても、長年経験を積み重ね、本物の技術を持った人からしか学べないことがたくさんある。

 

 

 

      ◇生き証人たち



アーニー・ライレー。
昭和プロレスファンにも知られていない名前だが、
ビリー・ライレーの息子さんであり、自身もビリーライレージムの全盛期を支えた名レスラーの一人だ。
1995年の夏頃、一時期、アー二―さんは、頻繁にジムに顔を出し、直接指導をしてくれていた。

ロイ・ウッド先生が子供のクラスを教えている間に、隣の部屋で、
高齢ではあったが、自ら技を見せてくれた。 UWFでもお馴染みだった、クルック・ヘッドシザースは、私はアーニー・ライレーさんから習った技だ。

ロイ・ウッド先生と、ライレー宅に訪問したこともある。 ビリーライレージムの話もたくさんしてもらった。 父親のビリー・ライレーが巻いていたベルトなど、数々の貴重な品々、写真を見せて頂いた。

ロイ・ウッド先生もたくさんの昔のライレージムの写真を所有していたが、この時、アーニーさんは、 「ロイ、最近こんな写真が出てきたよ!」と言って、おそらくライレー家にしか残っていなかった、ロイ・ウッド先生も見たことのない数枚の貴重な写真を見せていただいた。 そして、ロイ・ウッド先生はそれらの写真を預かり、コピーさせてもらうことになった。ついでに私の分もコピーしてもらった。
私は日本に帰ってから、何人かにこれらの超貴重な写真のコピーのコピーを差し上げた。 これが、回りに回って、いろいろな所で使われた。
面白いことに、一番貴重だった写真が、一番出回っていく結果になった。

ちなみにアーニー・ライレーさんの孫、つまりビリー・ライレーの曾孫も、“ビリー”と名づけられていて、この頃にロイ・ウッド先生のもとでレスリングを始めたが、 残念ながら、大人になる前にやめている。

その他にも、同じくビリーライレージム出身の“伝説の最強レスラー”ビリー・ジョイスさん、ブライアン・バークさん、
ジャキー・チアースさん、ライレージムの取材をしていた記者など、私は幸いにもギリギリでライレージムの生き証人たちと出会い、話を聞くことができた。1990年代半ばまでは、まだご存命な方も多かった。

パブでロイ・ウッド先生と他のライレージムOBの人たちがする、ビリー・ライレーの話、ビリー・ジョイスの強さなどの昔話を聞けるというのは、 今考えてみても、なんとも贅沢な時間である。 ただ、ひとつ悔やまれるのは、私の当時の英語力である。もっとみんなの話を理解できれば...、もっといろいろ質問できれば... と思っていたが、その気持ちが私の英語学習のモチベーションでもあった。

偉大な大先輩たちのことで一番印象に残っているのは、みんながみんな、何歳になろうが、ビリー・ライレーがもうこの世にいなかろうが、いつまでも ビリー・ライレーのことを心から尊敬し、指導を受けたことに感謝し、誇りに思い、ビリー・ライレーが最高の先生だと信じ続け、その教えを守り続けているということだ。 私が、ビリーライレージムの生き証人たちから学んだ“心”である。

 

 

 

      ◇全英選手権


’95年4月8日、フリースタイルレスリング全英選手権に参加した。68kgで出場した。私は、試合前の減量は好きではなかったので、常日頃からこれぐらいの体重を維持していた。そのほうが体調が良く、精神的にもいい状態で試合に挑めた。

この試合、ロイ・ウッド先生は、どうしても外せない用事で来ることができなかった。私以外に、ジムからの参加者もいなかった。友達一人がついてきてくれただけだった。これまでにも、何度かフリースタイルの試合に参加してきたが、こんな状況は初めてだった。しかし、逆に緊張もせず、無駄な力も入らず、よく動けた記憶がある。

1回戦、負けてしまった。しかし、敗者復活というシステムがあった。これをどんどん勝ち進み、結局5位に入賞できた。
この当時、自分が本当に全英選手権5位の実力があったかどうかは疑問が残る。かなり運もよかったと思う。ただ、本番での集中力、本番の強さはあったと思う。 翌日、パブで先生に結果報告。私にしては、予想以上の成績だったので、先生も驚くのでは?
と思っていたが、とくにそんな様子も無く、淡々と「よくやった。」と言ってくれ、また延々と「まだまだ頑張らなくては」と思わせるような熱い話を聞かされた。 試合にはあまり興味がなく、自分から「出たい!」と思うこともなかった。ただ、先生から「出ろ」と言われた時に、「はい」と言うだけだった。このころから、私はキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを武道的に捉えていた。「ビリー・ジョイスのような達人になりたい、そして最終的にはビリー・ライレーになりたい」といつも思っていた。

 

 

     ◇ウィガンでの生活

 


私はパブの2階に住んでいた。朝に掃除のお手伝いなどをして、家賃を安くしてもらっていた。その他にも、節約のため、ジムで寝袋で寝たり、少し離れた牧場で、キャンピングカーの中で生活していたこともあった。
しかし、何度もウィガンに来て、長く滞在すればするほど、友達も増え、力を貸してくれる人もたくさん現れ、経済的にも本当に助けられた。しまいには、一軒家を数ヶ月間無償で借りていたこともあった。

就労ビザはなかったので、仕事はしていなかった。昼間は、週2、3日、パートタイムスチューデントとして、大学の英語の授業を受けていた。様々な国から、様々な年代の人がいた。

ロイ・ウッド先生の外回りの仕事のお供をすることもよくあった。 早朝から遠くの町へ出かける時は、なぜかいつも誘われた。私はとくに何もすることはなく、助手席に座って、先生の話を聞いているだけである。 しかし、この時いつも、前日の練習の悪かったところを指摘され、アドバイスをたくさんしてもらっていた。先生と一緒にいる時は、常に練習なのだ。

また、昼間は、初めてジムに来たときに、ロイ・ウッド先生に連絡を取ってくれた、目の不自由なバリー・ジャクソンさんと過ごすことも多かった。
バリーさんは、ジムの前にある畑を借りていたので、畑仕事のお手伝いをしたり、一緒にグリーンハウスを作ったこともあった。

あとは、ジムで一人で筋トレ、掃除をしていた。日本の「道場」と違い、ジムを使っているみんなで、常にきれいにしておこうという概念がない。
ジムの掃除は、自分の仕事だと思っていたし、なにより自分がきれいな清潔なマットで毎日練習したかった。上履き・下履きの区別のないイギリスなので、 日本では上履きになる、レスリングマットが汚いのは、正直言ってかなりイヤだった。

週2日、午後2時頃にジムの近くの小学校に先生と指導に行っていた。 倉庫から、マットを運び、体育館に敷いて、1時間弱の練習だ。
子供を教えるのは本当に大変だ。なかなか言うことを聞いてくれない。しかし、自分が練習しているときとは違い、先生の指導の仕方を見て学ぶことに集中できた時間だった。 先生が仕事でどうしても行けないときは、私一人で指導することもあった。

夜はもちろん練習。子供のクラスの時は、となりのウェイトルームでウォーミングアップしたり、他の人と技の練習をする。
子供のクラスが終わると、大人のクラス。いつも人数は少ないが、その分中身の濃い練習だった。

パブの2階に住んでいたが、私はお酒は飲めない。でも、英語の勉強のためにも下に降りて、みんなと話をしたり、ラグビー、サッカーの試合を大型スクリーンで見たりしていた。イギリスでラグビーは、サッカーに次ぐ人気スポーツで、1990年代当時、ウィガンはリーグトップチームだったということもあり、パブでの試合観戦時の盛り上がり方は凄かった。ウィガンのシャツを着て、ラグビー会場にもよく足を運んだ。

お世話になっていたパブの売りは、オーナーが弾くオルガン生演奏でのカラオケで、私もビートルズなど歌っていた。

ロイウッド先生もこのパブに週2日ほど来る。ホントによく飲むが、酔っぱらうことはない。 いろいろな話をするが、結局は、一方的に熱くレスリングの話を聞かされる。 しかし、この時間が大好きだった。布団に入る前に「このレスリングを極めてやる!」と熱く思わせてくれるこの時間が。

結局、1993年から1997年まで5回ウィガンに行き、毎回4~6ヶ月間滞在した。本当にかけがえのない貴重な体験をたくさんさせてもらった。

定職もつかずに、こんなふうに過ごした21歳~26歳。 もちろん、こんなことしていていいのか?と将来を不安に思い、悩むこともよくあった。自分のやっていることを、人に話すのが恥ずかしく、いやな時期もあった。

でも、最終的には「一度きりの人生、これをやらずにどんどん年を取っていくことのほうが不安ではないか」 と思うようになった。
読み返せば、’95、’96年頃の日記にやたらと書いてある 「いつの日かビリー・ライレーになりたい」 という言葉 - 何があっても絶対に辞めないという 本当の“覚悟” ができるまで何度も書き続けた。

 


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ライレージムへの道
  ---- 目次 ----

◇はじめに

第1章
 伝説のジム

◇ 最盛期
◇ ライレージムの終焉
◇ 再始動
◇ 新生ジム


第2章
ウィガンへの旅立ち

◇ ライレージムへの興味
◇ 21歳の決意






第3章 
 ロイ先生との出会い

◇ ジム探索
◇ 初対面
◇ 初練習
◇ 忘れられない言葉
◇ 取材
◇ 聖地に立つ
◇ 伝説に触れる
4章
 本格修行の開始

◇ 入国審査
◇ 到着初日の洗礼
◇ フランス遠征
◇ ノート




第5章
 実態を知る

◇ ロイ・ウッドの指導
◇ キャッチの実態
◇ ランカシャー選手権
◇ サブミッション
◇ 生き証人たち
◇ 全英選手権
◇ ウィガンでの生活

第6章 
 ウィガン訪問者

◇ SWS
◇ 日本人記者
◇ Bushido
◇ 無我



第7章
 伝説の最強レスラー

◇ ビリー・ジョイス伝説
◇ 達人の技
◇ 達人を目指して




第8章
 ビル・ロビンソン先生

◇ スネークピットジャパン
◇ 宮戸氏との再会
◇ ロビンソンテスト
◇ スパーリング披露
◇ コーチング
◇ 最高の賛辞
◇ 学び方を学ぶ

第9章
 6年ぶりのウィガン

◇ 変化
◇ 先生の覚悟
◇ 前哨戦
◇ 最初で最後のスパー
◇ コーチ代行
◇ レスリングマット

第10章
 ライレージム京都

◇ 自分の練習場所
◇ 命名
◇ ニアミス
◇ ロビンソン先生の言葉



第11章
 ロイ・ウッド認定

◇ セミナーの謎
◇ 19年前の練習
◇ 認定書
◇ 半世紀の時を経て
◇ 20年目にして思うこと

◇おわりに