☆☆☆ 目次 ☆☆☆
◇はじめに
第1章
伝説のジム
◇ 最盛期
◇ ライレージムの終焉
◇ 再始動
◇ 新生ジム
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第2章
ウィガンへの旅立ち
◇ ライレージムへの興味
◇ 21歳の決意
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第3章
ロイ先生との出会い
◇ ジム探索
◇ 初対面
◇ 初練習
◇ 忘れられない言葉
◇ 取材
◇ 聖地に立つ
◇ 伝説に触れる
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第4章
本格修行の開始
◇ 入国審査
◇ 到着初日の洗礼
◇ フランス遠征
◇ ノート
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第5章
実態を知る
◇ ロイ・ウッドの指導
◇ キャッチの実態
◇ ランカシャー選手権
◇ サブミッション
◇ 生き証人たち
◇ 全英選手権
◇ ウィガンでの生活
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第6章
ウィガン訪問者
◇ SWS
◇ 日本人記者
◇ Bushido
◇ 無我
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第7章
伝説の最強レスラー
◇ ビリー・ジョイス伝説
◇ 達人の技
◇ 達人を目指して
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第8章
ビル・ロビンソン先生
◇ スネークピットジャパン
◇ 宮戸氏との再会
◇ ロビンソンテスト
◇ スパーリング披露
◇ コーチング
◇ 最高の賛辞
◇ 学び方を学ぶ
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第9章
6年ぶりのウィガン
◇ 変化
◇ 先生の覚悟
◇ 前哨戦
◇ 最初で最後のスパー
◇ コーチ代行
◇ レスリングマット
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第10章
ライレージム京都
◇ 自分の練習場所
◇ 命名
◇ ニアミス
◇ ロビンソン先生の言葉
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第11章
ロイ・ウッド認定
◇ セミナーの謎
◇ 19年前の練習
◇ 認定書
◇ 半世紀の時を経て
◇ 20年目にして思うこと
◇おわりに
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第11章 ロイ・ウッド認定
◇セミナーの謎
2011年の暮れあたりからだろうか。ロイ・ウッド先生の娘、アンドレアがたびたびメールで、ウィガンでのレスリングの状況を知らせてくれた。彼女は、以前は弁護士をしていたが、2003年以降は、ロイ・ウッド先生のレスリングの手伝いに力を注いでいた。
キャッチの聖地ウィガンで本格的に、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリング再興の計画を立て、着実に進んできているという。
アメリカでは巨大スポーツにまで発展したUFCをはじめとする総合格闘技の普及により、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの技術を持った選手が活躍するなどして、その名前も再び世界に広まっていた。
しかし、当然、名前が広まれば、いろいろな問題もでてくる。実際には、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを知らない者が、キャッチ・レスラーを名乗り始めたり、数日間セミナーを受けただけで、継承者と言い始めたりする者も出てくる。
キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを正しく認識してもらえるように、ロイ・ウッド先生も積極的にセミナーを開催し始めていた。そして、2012年11月に、大きなセミナーを開催するので、ぜひ参加してくれと、私に招待状が届いた。
しかし、アンドレアとのメールのやり取りだけでは、どうしても理解できないことがあった。
私が知る限り、ロイ・ウッド先生は絶対にセミナーなどをする人ではない。定期的に一緒に練習することのない人に教えたりすることはない。私にもいつも、「誰にも教えるな」 と言っていたし、第9章にも書いたように、私が他のジムで練習するのを本当に嫌がっていた。
以前、私も先生に 「普及のためにセミナーをたくさんやって行きましょう」 と提案したこともあった。しかし、もちろん即行で却下された。
先生も、もう69歳。技術を後世に残していくため、いろいろ心情の変化もあったのだろうか...
とにかく会って話して、どういうことなのか聞きたかった。
9年ぶりにウィガンに行った。マンチェスター空港にアンドレアが迎えに来てくれていた。
ウィガンへ行く高速道路は夕方のラッシュアワーで混んでいた。久しぶりの再会で話は弾んだ。
私は早くセミナーの謎を解きたかった。
「どういうこと?あれだけ不特定多数の人に技を見せるのを嫌がってた人やのに」
すると、アンドレアは 「うん。もちろん今でも嫌がってるよ」
「え?どういうこと?」
「私が全部やらせてるの!」
アンドレアは、 父親のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンが正しい形で、広まっていき、伝わっていくように、計画し、きちっと組織化していた。そしてライセンス制を導入し、厳しい審査基準も作り、本当にピュアな、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの普及に取り組んでいた。今回、そのライセンスの審査を初めて行うという。
そして、かつてこの地で盛んだった、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングの試合を、約50年ぶりに当時のルールで行うという。
全てアンドレアが企画、管理、実行している。ロイ・ウッド先生はそれに従い、これまでどおり選手を指導しているだけなのだ。アンドレアの情熱、実行力にはホントに頭が下がる。素晴らしい。
謎は解けた。 やはり父親は、かわいい娘には逆らえないということだ。
◇19年前の練習
ここで、本格的修行を始めたのは19年前、私が22歳のときである。 そして今は私も41歳になった。
当然、体の故障箇所もあるし、体力的にはキツくなっている部分もある。
まぁ、しかしそんなことはお構いなしに、20代のときにやっていた練習と同じことをやらされるのはわかっていた。
例によって、息をあげっぱなしの練習。私が少し遅れると、先生は20代の練習生と私を競わせ、「しっかりついていけ、遅れるな!」 と檄を飛ばした。
「もう40歳になったから...」などと言い訳ができるはずがない。なにせ、69歳になった先生ではあるが、まだ自ら技のデモンストレーションを行い、みんなに手本を見せているのだから。
「さすがにその技はちょっとやめたほうが...私が代わりにやります」と何度か言いかけたが、そんな生意気なことも言えなかった。
仮に言ったところで、「これぐらい、まだまだできるぞ!」と、ますます先生の闘志に火を点けてしまうことは明らかだ。
しかし悪い予感は的中した。ある技の練習中、みんなにお手本を見せ終えると、先生は肩を押さえてうずくまってしまった。みんな心配して駆け寄るが、先生は「大丈夫だ。練習を続けろ」と言った。 でも、どうやら肩が動かない様子だ。肩がはずれてしまったのだ。
全員でなんとかすぐに病院へ行くよう説得した。
こんな状態でも、「痛い」などと一言もいわない。表情も変えない。「助けてくれ」とも言わない。ホントにいくつになってもタフな人だなと改めて思った。午前に起こったことで、予定されていた夜の練習は、先生は大事をとって安静にしていた。というか、娘のアンドレアに強制休養させられた。
翌日、三角巾に腕を吊るして、先生はジムに現れた。私や、他の経験豊富な者に練習を任せるつもりだったはずだが、じっとしていられるわけがない。
先生の指導が始まり、どんどん熱くなり、しまいには三角巾を邪魔だと言わんばかりに取って、また自ら技を見せ始めた。本当になんて元気な69歳のおじいちゃんなのだろう。
そしてみんなには、「おい、あとで怒られるから、娘には絶対に言わないでくれよ!」と頼みこんでいた。
19年前と変わらない練習内容だった。先生も私も、年齢という数字は少しが増えたが、それ以外は変わっていなかった。
◇認定書
月曜から金曜までの5日間、午前・午後・夕の三部構成の、とてもハードな練習、セミナーだった。スパーリングももちろんあった。
しかし、多くの参加者は途中で体がもたなくなり、練習を休んだりしていた。私は、体力的には問題なかったが、腰がきつくなってきていた。それでもなんとか全てこなすことができた。そして、私にはコーチングの試験なども課された。
5日間のセミナーの最後に、先生のスピーチがあった。私と、もう一人ロイ・ウッド先生のもとで長く練習しているイアンを、The Snak Pit ロイ・ウッド公認コーチ第一号に認定するというものだった。そして同時にライレージム京都が、公認ジム第一号となった。
先生は、大勢のセミナー参加者たちの前で、私との思い出を話し始めた。 19年前日本から突然やってきたことから、私が買ったレスリングマットの話まで。最後はちょっとウルッとしてしまった。
◇半世紀の時を経て
2012年11月10日土曜日、ウィガンで50年ぶりに、純粋なキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合が行われる。「純粋な」というのは、近年キャッチ・レスリングと銘打った大会が日本、北米などでも行われたりしているが、それらは明らかに100年前イギリスで盛んだった、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとは異なる。
総合格闘技から打撃技を省いたものが、キャッチ・レスリングと思われがちだが、全く違う。
もちろん、それをキャッチだと言ってやっていくのは個人の自由だが。そもそもキャッチ・アズ・キャッチ・キャンでは、柔術・総合格闘技のように、自ら下になり、背中をマットにつけて戦うことなどない。
今回の大会は、基本、当時と同じルールでということだが、ビリー・ライレーが活躍していた頃と比べ、現代ではどうしても変えざるを得ない部分が2点
あった。
まず、制限時間。 かつては無制限、もしくは選手・マネージャー同士、プロモーターでその都度決めていた。しかし現在では、これは無理。15分1本勝負となった。
次に、壁を使った攻撃の禁止。昔は相手を壁にぶつけるなどもしていたらしいが、体育館の破損にもつながるので、これも絶対無理。
フリースタイルレスリングの大会の中で、実験的にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合が5試合組まれた。
決着方法に関する大きな違いは、キャッチには、フリースタイルと同様、相手の両肩をマットにつければ勝ちというピンフォールと、
フリースタイルにはないサブミッション(関節技)で、相手からギブアップを奪う方法がある。
50年間閉ざされていた幕を開けるという大役を任された。
相手は、22歳で私より15キロほど重いグレッグ。彼は6年間ロイ・ウッド先生のもとで練習しており、若いがしっかりした技術を持っていた。
5日間一緒に練習して、彼とが一番 「キャッチらいしい試合」 ができると感じていた。 だから、体重差はあるが、戦わされることは予想していた。
フリースタイルルールなら勝つのは難しいが、15分1本勝負、ポイントなしなら、なんとかなるだろうとは思っていた。
予想通り、グレッグはガンガン攻めてきた。力強さを感じた。きついが、凌ぎながらカウンターを狙って、チャンスを待っていた。ずっと決定的な技こそかけさせないが、コントロールはされていた。フリースタイルルールならポイントを取られ続けてテクニカルフォール負けになっていただろう。
チャンスは意外と早く訪れた。グレッグが私の足首の関節を極めにきた。「来た!」と思い、私はカウンターを取り、逆に彼の足を締め上げた。かなり手ごたえはあったが、グレッグはすぐにはギブアップしなかった。さらに締め上げると、少しバキバキと音がした。グレッグがギブアップした。膝も痛めた。
50年前に行われた、聖地ウィガンでの最後のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合、ビリー・ジョイス対ベルショウの一戦。
この試合を最後に、キャッチの幕は閉じていた。
そしてこの日、私とグレッグの試合で、再び幕が上がった。
奇しくも、私とグレッグの勝負を決した攻防は、50年前のビリー・ジョイス対ベルショウ戦のそれと全く同じものだったという。
この手でそれができたことを嬉しく思う。
◇20年目にして思うこと
「私は日本から来た、プロレスファンで、ランカシャーレスリングを習いたくて来ました。ビリーライレージムを復活させて欲しいと思っています。今回は数日後に日本に帰りますが、またここに戻ってきて、長期滞在して習いたいです。ランカシャーレスリングを受け継ぎたいです」
1993年5月、ロイ・ウッド先生に初めて会ったときに伝えた言葉。
当時、ロイ・ウッド先生、周りの人たちは、この私の言葉をどう思っていただろうか?
「何を言ってるんだ?」と思われていただろうか?
20年前には、想像もできなかった。 あの、“人間風車”ビル・ロビンソンからも指導を受けられること、自分のジムを持ちロイ・ウッド先生から直接、「ライレージム」の称号を与えられること、ロイ・ウッド認定のキャッチレスリングコーチになること、自分が聖地ウィガンでの50年ぶりのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合を戦い、勝利したこと。
私は本当に幸運の連続だったと思う。 あのときの自分の言葉を守ろうとしながらも、自然の流れにまかせてやってきただけなのに。
20年は長かったようにも感じるし、思い返せばあっという間だったような気もする。
ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリング - 私の人生、私の生き方そのものである。
なぜこれを選んだのかはわからない。べつに何でもよかったのかも知れない。
音楽でも、絵画でも、他のスポーツでも、何でもいいのかも知れない。
ただ、一つのことを追求していくことが強さだと思う。
結局は、心を鍛えているだけなのかも知れない。自分の肉体を使って、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングを通じて心を鍛えている。 だから何歳になっても終わらない。
そして、やればやるほど、これまで自分がいかにわかっていなかったかに気づく。
ロイ・ウッド先生のインタビューでこんな言葉があった。 「私の得意技であるグロベット、30年経ってもまだ完成したとは言えない。」
先生が47歳のときの言葉だ。
よく聞くような言葉だ。でも、本当にそうなんだなと、42歳になり、あの時の先生の年令に近づきつつある今、実感している。
そして、20年前に先生が言ってくれた、「何があってもあきらめない強い心を持て!」 その意味もようやく理解でき、実感できていると思う。
ビル・ロビンソン先生にもいつも言われていた 「必ずできる、できると思え、できると信じろ!」
ロビンソン先生の、この言葉をずっと聞いているうちに、 私はいつからか、自分は優れたキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのレスラーだと思うようになった。
それは自惚れることではない。自分が受けた教え、自分を強くするために誠心誠意、一生懸命に指導してくれた偉大な先生たちを信じることである。 自分の受けた指導は最高のものであると。自分のような者でも優れたレスラーにしてくれるほど偉大な先生なんだと。
私のライレージム京都は、もちろんビリーライレージムの全盛期とは、今はとても比較できるようなレベルではない。
しかし、いつかビリーライレージムを越えるようなジムにしたい。本当に「ライレージム」と名乗るにふさわしくなるまで、諦めず。失敗しても、何度でも何度でもやり続けるしかない。
ビル・ロビンソン、ロイ・ウッド 二人の偉大な先生の “Do it again.” という言葉を常に思い出しながら、いつまでも。
◇おわりに
このように自分のことを書くのは、小っ恥ずかしいことであるし、何もインターネットで公開するようなものではないと思っていた。
現に、周りの人に勧められて、ブログで始めたこの 「ライレージムへの道」 ではあるが、やはり本人はそれほど乗り気ではなく、2008年6月に開始したものの、5年経っても終わせることができなかった。
しかし、それを読んで、ライレージム京都を訪問してくれた人も何人かいた。 私と同じ年で、当時40歳にして愛知県から、本気でキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを学びに来てくださった人もいる。京都に1年間住み、本格的に学ばれた。
私自身も、いろいろなものから影響を受け、21歳の時にイギリスへと旅立った。何が人の人生を変えるかはわからない。
自分が発信することによって、それを読んだ人だけではなく、また自分自身にも何か起こるかもしれない。
そして、私が学んできた ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリング にも何か起こるかもしれない。そう考えるようになって、この私自身の体験を書き上げました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリング に興味を持たれましたら、
ライレージム京都までご連絡いただければ幸いです。
また新しい何かが起こるのを楽しみにしています。
2013年8月14日
ライレージム京都 松並 修
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◇はじめに
第1章
伝説のジム
◇ 最盛期
◇ ライレージムの終焉
◇ 再始動
◇ 新生ジム
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第2章
ウィガンへの旅立ち
◇ ライレージムへの興味
◇ 21歳の決意
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第3章
ロイ先生との出会い
◇ ジム探索
◇ 初対面
◇ 初練習
◇ 忘れられない言葉
◇ 取材
◇ 聖地に立つ
◇ 伝説に触れる
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第4章
本格修行の開始
◇ 入国審査
◇ 到着初日の洗礼
◇ フランス遠征
◇ ノート
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実態を知る
◇ ロイ・ウッドの指導
◇ キャッチの実態
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◇ 生き証人たち
◇ 全英選手権
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第6章
ウィガン訪問者
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◇ 無我
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伝説の最強レスラー
◇ ビリー・ジョイス伝説
◇ 達人の技
◇ 達人を目指して
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ビル・ロビンソン先生
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◇ ロビンソンテスト
◇ スパーリング披露
◇ コーチング
◇ 最高の賛辞
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第9章
6年ぶりのウィガン
◇ 変化
◇ 先生の覚悟
◇ 前哨戦
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◇ 自分の練習場所
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